亡き妻と共に「前へ」活きて生きる 第一章

私が教える関東学院大学公開講座「物語をつくろう!では、受講者自身の体験や思い・興味を活かして物語をつくります。個性溢れる素敵な作品の数々をご紹介します。

Sさんの自筆

亡き妻と共に「前へ」活きて生きる

70代のT.Sさんは、奥様との絆とご自身の生き方(実話)を物語にしました。最愛の奥様との別れと悲しみ、そこから立ち上がり、奥様の分まで前を向いて生きるSさんの生き様は、感動の一言です。夫婦ってこんなにも深く尊重し愛し合いながら生きられるんですね。
大作なので3つに分けてお届けします。

目 次

第一章 妻の旅立ち
1、宣告と葛藤
2、過酷な闘病
3、自宅をホスピスに
4、妻の遺言
5、止まらぬ涙

第二章 亡き妻との語らい
1、前へ
2、食の自立
3、慈しみの心を繋ぐ
4、憩いのお墓

第三章 活きて・生きる
1、大学院への挑戦
2、生きがいとは
3、妻の遺志を繋ぐ
4、生きがいの創出
  ”農あるくらしの輪”

≪あとがき≫


第一章 妻の旅立ち

1 宣告と葛藤

2018年3月23日、私と妻の戦いの始まりの日であった。
妻は2年前から腹部の違和感を抱き、種々の検査をしつつその原因が掴めないままに来たのだが、腹部の違和感がかなり増してきたことからの検査を経て、その結果を聞くための面談だった。

いつもは待合のフロアまで響くほどの明るい声で迎えてくれる先生なのだが、今日は違っていた。そんな先生の態度に不安な気持ちを持ちながら、妻と二人で先生の言葉を待った。
先生は言い難そうな表情の中から、
「申し訳ありません。今更と言われ、誤診だと言われればそれまでだが、精査の結果、第4ステージで手術は出来ない状態です。」
と告げてきた。
「えっ! そんな! 今更!」
私の驚きは隠しようのない怒りへと変わったが、妻は何も言わないでいた。
私の心中は「今までの治療は何だったのか、苦しい思いをしつつも何とかその原因を突き止めて欲しい、それを今更…」
「モヤモヤとしたものがある」と言ってその原因が判明しないまま、考えられるだけの検査をし、その都度対症療法しか施してこなかったこと、最終的にはモヤモヤの正体は掴めないけれど、血液検査の異常値だけで判断をしたことなどが伝えられた。
聞いているうちに私の怒りは頂点に達していた。「それが最高医療を担う大学病院の医師の言うことなのか。血液検査は来院の度に行ってきたものだし、そこまでの異常値なら今までの経過の中で判断できたであろうに…」それらの想いが駆け巡り、何とも言いようのない思いが込み上げてきた。
私はその怒りの思いを先生に伝えようと身を乗り出してしまった。
妻はそんな私の膝を強く押して、それを制した。そして先生に向かって、
「余命はどれくらいですか?」
と質問したのである。
「そんなことは聞きたくない」という私の心の声である。
先生は妻の質問に驚きつつも、
「6か月から5年です」
と告げてきた。非情な物言いである。
私の膝は怒りで震えカタカタと靴音がするほどであった。
そんな私を横目に見て、妻は重ねて聞いた。
「それは何もしないで自然に任していたら6か月で、何らかの治療を施せば5年の余命になると言うことですか?」
「そうです、差し当たって考えられるのは痛みを抑える服薬であり、その経過とともに抗がん剤治療と放射線治療を並行していくことになります。」
先生の言葉はあくまで冷静であった。
「誤診と言われればそれまでだが…」とかなり憔悴して言っていた先ほどの態度に比べ、先生の語調はかなり勢いが出てきたようであった。「患者が治療方針を聞いてきた、と言うことは、患者からの怒りの爆発の感情をぶつけられなくなった。」そう思ったのであろうか?先生のその表情は安堵を示すものであることを感じられた。 少なくとも私にはそう見えたのである。
「そんなものなのか。患者と先生の立場の違いと言えばそれまでだが…、何ともやりきれない。患者側の身勝手な見方かも知れない。そんなことは重々分かってはいるつもりではあったが、そんな淡々とした物言いは我慢できない、ましてや妻は…。」
そうは言っても、受け入れなければならない現実がそこにあった。

重い気持ちを抱えて家路につくと、
「お父さんどうしようか?」
とつぶやく妻。私は妻の言葉に応える言葉を言いよどんでしまった。
「出来るだけ長い期間を一緒にいたい、だけどそれはかなり苦しい闘病生活を余儀なくされる、時には人間の尊厳を冒すものにもなるだろう。それは本人でしか決断を下すことはできないことだ…」そんな私の思いが頭の中を絡め回ったからである。そんな私に、
「お父さん、先生の治 療方針を受け入れてみたいと思う。この治療がどれほど辛いことであるかは分かっているつもりです。その代わりお父さんの世話になることが多くなると思うけど宜しくね…」
務めて明るく振る舞う妻。
複雑な思いを隠して、
「うん!頑張るよ、一緒に戦っていこう」
と言いつつ、私は思わず妻の手を握りしめた。
私の感情とは反比例するように、妻の手はひんやりとしていた。

2 過酷な闘病

しかし、そんな夫婦の誓いをあざ笑うように、抗がん剤治療、放射線治療は妻の病気を治すものではないことの現実を受け止めなければならない状態が増していった。
抗がん剤の世界的な権威の熊本大学の名誉教授の前田浩先生は、その著書の中で、「治療の方が病気の苦痛よりはるかにひどい」と述べている。
これは治療をしたことによって白血球が減少したり、嘔吐、吐き気、食欲不振、脱毛などの副作用が顕れてくることがその要因で、妻の症状もまさにその通りで、治療を受けるたびに妻の体は弱っていき、立つこともままならないほどのダメージを受けてもいた。
あまりの状態にそのまま緊急処置室での手当てを受けそのまま入院をすることもあった。
そんなときの入院は大部屋で、多くの患者が雑居する一般病室であった。
最も深刻で最もセンシティブな対応がなされなければならない場面であるのにも関わらず、そういう患者の思いへの配慮は一切行われないような環境に身を置かれた。
そして、身も心も苛まれている患者の細々とした声と反比例するように、先生の声は病室内中はもとより、廊下にまで響く声でもあった。

余りにも妻の体力が落ちていることを感じた私は、
「体力がつくような治療は出来ないのでしょうか?」
と懇願するように聞いてみた。しかし、入院病室の担当医師からの言葉は耳を疑うものであった。
「体力の回復は自宅でやるものであって病院ではない」
とかなり大きな声で私に告げてきたのである。
私は、怒る思いを抑えながら、
「そうかもしれないが、今回の入院は、放射線治療と抗がん剤治療との経過後にこのような体力下落を招いているのであり、だからこそ緊急入院になったものであり、その先生の言われ方は理解できない」
と述べた。
病室担当医師は、私の質問に一瞬身構えたようであったが、その態度と物言いは変わらなかった。
妻は悲しい顔をして、そのやり取りを聞いていた。
そして、自分の置かれた環境が相当に応えてしまったのであろう、
「お父さん、退院したい」
と言ってきた。
何とかならないかと病院に懇願をしたが、叶えられなかった。
退院も出来ず、患者の思いにも答えてくれない。言いようのない不満が募った。
その後も、治療のたびに同じことの繰り返しであった。

そんなある日、
「お父さん!今私がしている苦労は無駄なような気がしています。それよりも、自然の流れに任せてみたい気がしています。今後は、自宅に帰っての治療体制にできないだろうか?お父さんには苦労を掛けることになるけれども、是非そうしたいのです。」
日頃の妻からは想像できないほどの、かなりな強い口調で私にそう伝えてきた。
妻がそう思うのも仕方がないほどの苦しい治療が、日を追うごとに妻の体を苛んでいった。私には、見ていられないほどでもあった。

私は「妻の思いを叶えるためにはどんな方法があるのだろうか?」そんな思いを込めて先生に相談をした。
「緩和医療の道を選ぶことになる。」
と先生。そして、
「そのことについては、担当の部局があるのでそこに相談をしてほしい」
あくまで事務的であった。これが数年の間、妻の病状を診てきた医師の態度なのだろうか。
私にしてみれば、その苦しさの中から何かその手立てを考えてくれるのが最高医療を担う大学病院ではないのか?このことが期待できるからこそでもあったのに…。
どうしてもそこに思いが行ってしまう。諦めきれないのである。
そんな私の思いとは別に、当の先生は私たち夫婦の意向を聞くと、すぐに事務方に連絡をしてその手続きに入ったのである。
それは、治す医療からの訣別の瞬間でもあった。
これまでの長い期間の先生とのお付き合いもこれで終わりか…。
私は、「お世話になりました」の挨拶も虚ろにその場を去ろうとした。感慨よりも怒りがそこにあったからでもある。
しかし、妻は、
「お世話になりました。頑張ってみます」
と言って、その先生に向かって丁寧に頭を下げてお礼を述べていたのである。
妻の毅然とした態度に比べて、あまりにも情けない。私は自分の態度を恥じた。そして、
「ごめんな…」
の言葉とともに、妻に心の底から謝った。
そして、それと同時に、「よしこうなったら、妻の思いを徹底的に聞いてその意向に応えるようにしよう」と心に決めたのである 。

3 自宅をホスピスに

早速、緩和医療の体制をどうするかを考えてみた。妻の要望に応えるにはどうしたら良いのか。いろいろ考えた結果三つの選択肢を考えて妻に示した。

一つは「今までの大学病院の緩和治療を通院で受ける」

二つ目は「今までの大学病院の紹介を得て自宅近くの緩和治療専門の病院に入る」

三つ目は「訪問医療専門機関と契約をして、自宅を緩和治療の拠点にする」

と言うものであった。
私が示した選択肢に対して、妻はすかさず、
「お父さんには大変な苦労を掛けることになってしまうけれど、自宅での緩和治療を選びたい」
と言った。もとより、妻がどうしたいか、と言うことを最優先にすることであったので、即座にその意向に沿うための行動に移った。

自宅の和室を緩和治療室として整え、地域包括支援センターを経由して介護機器の提供機関、介護士派遣機関、訪問医療専門医、訪問医療薬局、栄養管理のための宅食契約を行うなどで緩和医療体制を整えた。言うなれば自宅をホスピスとする体制である。そうして、妻の緩和医療への取り組みが始まった。

私達夫婦は、「やっぱりこうして良かった」という思いで一杯になった。それはまさに、担当してくれる先生の態度や言葉、看護師の対応などの全てに、妻の心を癒してくれるものであったからである。
妻の顔は明らかにその明るさを取り戻していった。それは心の平穏を取り戻したことの裏づけであったのかもしれない。夫婦の会話も弾み、冗談も交わすほどでもあった。それは、久しぶりに味わう幸せな日々でもあった。

しかし、そんな日々も長くは続かなかった。
日を追うごとに痛みが妻を襲い、痛み止めでそれを抑える。そんな繰り返しが続くうちに、それらも効果が無くなってきたし、食欲も徐々に衰えてきた。
「まだ待ってくれよ、もう少し妻とゆっくり話の出来る時間をくれよ、頼むから…」
私は、誰にでもない祈りの気持ちを、妻に気づかれぬよう叫んでいた。

4 妻の遺言

そんな経過のある日、妻は私が触れて欲しくない話題を持ち出してきた。
「お父さん、私が向こうへ逝った後、一人になるけど、どんな生活をしていくの?」
「どんなって言っても…」
私はそれ以上の言葉が続かなかった。妻は続けて聞いてきた。
「お父さん、私の入るお墓のことなんだけど…」
「えっ?」
と言っただけで私は黙ってしまった。と言うより、お墓をどうするなんて考えてもいなかったのが正直なところであった。
妻は私の戸惑いを打ち消すように、
「実は、私のお墓についてお願いがあります。 近くに建てて欲しいのです。本来ならお義母さんやお義父さんの眠る群馬のお墓に入るのが私の務めなのかも知れないのだけれど、お父さんや子供たち、孫たちが会いに来てもらうのには遠すぎるので…。そんな思いは寂しすぎるので…」
と言った。私には耐えることのできない時間でもあった。私はその話を早く打ち切りたい思いから
「分かった、分かった、もういいよ、分かったから」
と言った。

そんなやり取りをして数日過ぎたある日、妻がまた話しかけてきた。
「お父さん、私はもうすぐ向こうへ逝きます。
お父さんのことだから、私が先に逝くことに責任を感じたり、後悔をしたり、思い悩んだりするのだろうけれど、どうかそうしないで欲しい。これは私の寿命であって、どうしようもない定めだし、抗うことは出来ないことなのです。どうか過ぎたことを思い悩まずに、前を向いて生きて行って下さい。」
死を意識した中で、何でこんなに冷静な言葉を発することが出来るのだろう。
何という強い意志を持っているのだろう、そう思わずにはいられなかった私 であった。
振り絞るように、そんな遺志を告げてきた妻に、私は、万感の思いを込めて、
「うん、きっとそうするよ」
と答えるのが精一杯であった。

妻が黄泉の世界へ旅立ったのは、その日から数日後のことであった。

5 止まらぬ涙

妻が逝ってしまったことを、現実として受け止め切れない私であった。
覚悟はしてはいたものの、私の心はかきむしられるようでもあった。
「何で、私より先に…」
「何で、私を一人ぼっちに…」
「あの時、こうしてやれば良かった」
「何であの時、お前の言ったことを理解してあげられなかったのだろう」
「何であの時一緒に悩んであげられなかったのだろう」
「何で…」
「何で…」
ついてくる言葉は、妻へのなじりや後悔ばかりの私であった。
何ということか、何と女々しいことか、これが私だったのか…
そんな、寄る辺ないようなせんないことを遺影に語り掛け、そのたびに涙が止まらない私…
妻に支えられての私の人生、妻がいない人生を、何を楽しみに生きていけばよいのか?
そう思えば思うほど、行き場のない焦燥感にかられ、あろうことか、首を左右に動かすことも、声を出すこともままならなくなってしまった。
「このまま俺は朽ちてしまうのか?」
それはまさに妻に先立たれた高齢の夫の末路を地で行くような姿そのものであったに違いない。

そんな精気のない私に、
「お父さんらしくないよ」
「それじゃ、お母さんの遺志を継げないよ」
「お父さん前を向いて」
等の言葉と共に、娘や息子夫婦らが陰に陽に私を励ましてくれた。

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