亡き妻と共に「前へ」活きて生きる 第三章

大学公開講座「物語をつくろう!で生まれた個性溢れる物語のご紹介!今回は、亡き妻の遺言「前へ」を受けとめて生きるT.Sさんのチャレンジ人生の実話。奥様への愛に胸が熱くなります。

Sさんの自筆

亡き妻と共に「前へ」活きて生きる

70代のT.Sさんは、奥様との絆とご自身の生き方(実話)を物語にしました。最愛の奥様との別れと悲しみ、そこから立ち上がり、奥様の分まで前を向いて生きるSさんの生き様は、感動の一言です。夫婦ってこんなにも深く尊重し愛し合いながら生きられるんですね。
大作なので3つに分けてお届けします。

目 次

第一章 妻の旅立ち
1、宣告と葛藤
2、過酷な闘病
3、自宅をホスピスに
4、妻の遺言
5、止まらぬ涙

第二章 亡き妻との語らい
1、前へ
2、食の自立
3、慈しみの心を繋ぐ
4、憩いのお墓

第三章 活きて・生きる
1、大学院への挑戦
2、生きがいとは
3、妻の遺志を繋ぐ
4、生きがいの創出
  ”農あるくらしの輪”

≪あとがき≫


第三章 活きて・生きる

1 大学院への挑戦

(1) 妻からの苦言

妻が逝ってしまった後の葛藤やそれらを乗り越えようとしてきた経過の中で、何とか大学院に合格することが出来た。
そのことを妻に報告すると、妻は笑顔でその喜びを顕してくれた。
「お父さん良かったね、努力した結果だと思うし、凄いことだと思っています。そんな喜びの時に言い難いのだけれど、大学院に通う際に私が是非そうして欲しいことを思い切って言います。」
「何を言うのだろう? 」
私は少し身構えてしまった。
「大学院に行くにあたって、私が一番気を付けて欲しいことを言います。それは、お父さんの身だしなみのことです。」
「えっ!身だしなみ? 何を言うかと思ったら…」
「一番気を付けて欲しいのは、“体臭”に気をつけて欲しいのです。自分では気が付かないと思うのですが、一番気になることです。特に耳たぶの後ろは臭いの巣になり易いから気を付けてください。うるさく思うだろうけど、どんなに着飾っても体臭如何でその人の価値が決まってしまうからです。大学院への通学前日の晩は必ずお風呂に入ってそのことへの対応をして下さい。 
次に注意して欲しいのは髭の管理です。正直お父さんの髭は似合っていると思います。しかし、似合っているその分だけ目立つところですので、特に気を付けて下さい。手入れをしておかない髭はただの不精髭になってしまいますから。
次に注意して欲しいのは、鼻毛と眉毛の管理です。歳をとると何故か突出するように不揃いな伸び方をするようで、人と話をするときにはかなり目立ちやすく、人の品格を落としてしまうので注意してください。それから…」
「えっ、まだあるの?」 
私は少しイラついてきたが、そんな私のイラつきには気づかない様子で妻は続けて言ってきた。
「それはお父さんの姿勢のことです。前から指摘していましたけど、お父さんは少し猫背になっています。そのために全体が貧相になってしまうので特に気を付けて下さい。自転車に乗った時の姿勢は、右肩が下がり過ぎて最悪だと思っています。背骨をまっすぐにすることを意識するといいと思いますし、毎朝やっているヨガはその点を意識してやるのに最適だと思いますよ。」
「うーん、イチイチ的確だな、口惜しいけど…。やっぱりお母さんは私のことをよく見ているよ、そうだよな、“奥さんが先に逝ってしまったらあんな状態だよ”なんて言われたら癪だものね…。」
私は妻の言うことを素直に受け止めることが出来た。
そして、「絶対の約束として守りたい」そう思ったのである。

更に嬉しいことは、これらの妻からの苦言(指導)は、息子がしっかりと受け継いで多くの助言をしてくれてもいる。主に服装などの整え方の助言であるが、とても私の発想からは身につけそうもない細身のパンツやシャツ、靴、ベルト、帽子に至るまで、いくつかのシーンに併せての整え方を指導してくれた。そしてその基本は姿勢にあることで、それを意識した体の整え方まで助言をしてくれもした。
それらを実践すると、何故かしら身長が伸びたような、スラっとしたような感覚になる。不思議なもので、そう言った整え方をすると自分自身の行動や振舞い方もそれなりに整うことになる。まさに感謝の思いでもある。

(2) 苦闘の末の修士学位修得

そんな経過の中で、何とか大学院に入学することが出来た。
しかし、若い人たちの中に混じって、それはそれで苦行にも近い奮闘が強いられた。
教授の言うことがなかなか理解できず、当然発言も出来ない状態が続いていた。
一緒に学ぶ人たちのレベルの高さには「到底私には到達できそうもない」という思いがよぎりもした。
それは諦めとも、やっぱり無謀な挑戦だったのかとも思った。
帰宅し、打ちひしがれる思いで、そのことを妻の仏前に報告をした。
「お父さんご苦労様です。大分疲れているようですね。でも大変だろうけど頑張ってね。」 
と妻の笑顔が覗く。それは疲れ切った私の心を癒す笑い顔でもあった。そして、
「お父さんには誰にもない強みがあるでしょう」
とも言ってくれた。
「強みって何?」
私は敢えて妻に聞いた。
「それは、何でも挑戦し、どんなことにもその打開策を探してコトに当たってきた強みです。どうか、それを思い出してください。それこそ、他の誰にもないような経験とキャリアと言う宝物がお父さんにはあるじゃないですか。」
「いや、その経験もキャリアも実は全く通用しないんだよ。すべてのことについて論理的な思考をもとにして、独自の考え方を要求されるので、むしろ私の強みだった知識・経験やキャリアは結果としてのものであるし、“論理が飛躍している”と跳ねられてしまうんだよ。それに一番まずいことは、“こんなことを言ったら笑われるかな?”なんて躊躇している自分が居ることはしばししばのことで、そうこうしているうちに他の学生が私の考え方と同じようなことを自信を持って述べている。こんなことはザラにあることなんだよ。次週に向けた課題への対応もかなりボリュームがあって、それにも苦労しているよ。」
「きっとお父さんは何とかする。私はそう信じていますよ。」
落ちかける私の肩と背を押してくれる妻に感謝しつつ、
「そうだな、頑張らなきゃな。このまま落伍したら、やらなかった方がマシだった、なんてことになりかねないからね。」

「よし、それなら得意の早起きで徹底した力技で臨もう」そう思った私は、朝と言うより真夜中に近い午前2時を起床時間として定めて、論理立てを明確にして課題に対応しようと決めたのである。
かなり昼間眠くなってめげる気持ちにもなりそうになったが、何とか習慣化させることが出来るようになった。
こうなると、良い回転が出来るようになり、効率的に課題対応も出来るようになってきたし、そのことが楽しみともなり、自画自賛ではあるけれども、出来栄えそのものまでかなり良くなってきた。
そして、このことがまた次の課題への取り組みの原動力ともなっていった。
そんな勢いも借りて、最後の難関の学位論文の作成に取り組み、担当教授の指導を得て何とかクリアすることが出来たのである。
そして、何やかやの苦闘の末に、この3月に何とか修士学位を修得することが出来た。
「経営学修士!」
「MBA」
何とも響きがいい。
晴れがましい気持ちで学位記を見る。
何度も何度も…。
「やったよ!お母さん!」
私は、仏壇にそして墓前にその喜びを伝えた。
「おめでとう、お父さん!」
妻の顔がやけに神々しい。私の心の反射なのであろう。私は勝手にそう決めた。
私にとってみれば、まさに久しく忘れていた達成感でもあった。

“学位記を 手にした我が背 妻の手が 温(ぬく)く優しく 体に沁みる”

これは、その喜びを万感込めて作った妻への感謝を込めた、私の拙い短歌である。

2 生きがいとは

(1) 妻と紡いだ「3つのK」

「お父さん!大学院を終えてから何するつもりなの?学位がとれたからもういいやってことではないでしょう?」
「やっぱり聞いてきたか。決まってるだろう! ”前へ” だよ。具体的に言うとね、ポジティブエネルギーを発散できる”老人”になることだよ。」
「ポジティブエネルギーってどういうこと?」
「生きがいを持っているってことかなと思っているよ。いつ頃であったかは覚えてないけど、“少なくとも80才位までは社会生活の現役でいたいな”ということを、お母さんに言っていたと思うけど、覚えているかい?」
「覚えていますよ。夫婦って他人同士が縁あって一緒になったのだから、価値観が違う面がかなりあるし、それぞれがそれを主張し合っていたら摩擦が起きる。だから夫婦共通の部分は一緒になって頑張っていこうねって話し合ったよね。」
「良く覚えているな、感心するよ。」
「その時に、お父さんが“3つのK(健康)を確立していこう”なんて少し謎めいたことを言っていたのも覚えていますよ」
「そうだね、1つ目のKは “身体(カラダ)の健康”で、2つ目のKは“経済的(カネ)な健康”で、3つ目のKは“心(生きがい)の健康”と言うことでしたね。そして、1つ目と2つ目のKについては、夫婦共通の目標として頑張ってきたことを鮮明に思い出すことが出来ますし、それなりに形で残してこられたと思っています。ただ、3つ目の“心(生きがい)の健康”は少し難題だったような気がしています。やりがいや気概、生きがいを感じられることへの取り組みをしていこうと言うことでした。その点、お母さんは、そのことのために“皮革工芸の技術を修得”し、いずれは自立したいって目標を立て、爾来42年そのことに取り組んできたのだから凄いことだと思っていました。そしてそんな取り組みの成果として、ギャラリーで個展を開いたり、デパートに出店したり、生徒を集めて指導したりなど実践していましたね。そんなお母さんの姿は私の自慢にもなっていました。そして、もっと感心させられたことは、それほどの技量に到達していたのに週1回の革工芸教室に通い続けていましたね。そちらに行く寸前まで通っていたことには、心底感心させられていました。お母さんのそんな姿が今の私に反映していると思っています。」
「有り難う、お父さん。そう言って貰うと嬉しい限りです。人を指導したり、新しいファッションを取り入れていかなければ、持っている技術も陳腐なものになってしまうと思っていたからこそ続けられたのだと思っています。とは言え、それもこれも、お父さんが私の思いを援助してくれたおかげと思っています。家を新築した時には私の念願だった私専用の工房を設えてくれて、創作やら生徒さんへの指導やらを自由にやらせて貰ったおかげですし、心の健康を維持してこれたとも思っています。
そして、そんなことに立ち向かえてこられたからこそ50年間という長い年月を連れ添えてきたと思っていますし、お互いを高め合えてきたような気がしています。まさにお父さんのお蔭とも思っています。」
「嬉しいね、何よりの言葉だよ。私は今まで多くの失敗や経済的な損失もかなりあったけれど、それらの挫折を乗り越えてこられたのも、そんなお母さんの頑張りを見てきたからこそであるので、お母さんの言ったその言葉は、そのままお返しをするよ。」
「それからね、お母さん、伝えておきたいことがあります。それは、そうやってお母さんが一生懸命やってきた革工芸を、娘が引き継いでくれていますよ。娘は『やっぱりお母さんの領域に到達するのは到底無理』と言いつつも、近所の革工芸の先生の所へ行って教えて貰いながら作品作りをしたり、オリジナルなものにも挑戦しているようです。カービングを施したベルト、ペンケース、ノートカバー、お母さんの写真を入れるケースも作って貰いました。私は出かける際にはそれらを身につけてもいます。そして『こういうものを作って下さい』と言う私の注文にも応えてくれていますし、それらの作品には”Forward”って英文字が彫刻されています。言わずと知れた、”前へ”だよね。娘も憎いことをするよね、嬉しいけど…」

(2) 新たな誓い

人は歳を重ね、高齢になるに従って多くの「喪失体験」を経験する。
体力や心身機能の低下によって起こる「心身の健康の喪失」があって、子供の自立や自身の定年、退職、引退、配偶者との別れで「家族・社会とのつながりの喪失」があり、定年や退職、引退などでの「経済的自立の喪失」などを体験することになる。
幸い私は「心身の健康の喪失」も「生きる目的の喪失」も「経済的自立の喪失」もそこそこの処で経験しないで済んでここまで生きてこられた。
それは、そのことに備えた準備をしてきたからでもあるのだが、その底には「妻あったればこそ」であったことは言うまでもない。
だが、現実には、妻はもういない。
そして、それを受け止め切れていない自分がいることも現実である。
自信満々で生きてきた私なのに、妻がいないことを受け止め切れずにいて、そんな葛藤を紛らわすために非生産的な時間の過ごし方に没頭してしまってもいる。
そして後悔する…。
何度そういう自分に苛まれてきたか…。
それでもそこから逃げだすことは出来ない、生きていかなければならない。
ならば、どうせ生きるのだったら「自分を活かし生きていく」ことを目指していかなければならないとも思っているし、それが、感謝してもし尽せない、長年連れ添ってきた妻の遺志に応えるものであるからだとも思っている。

3 妻の遺志を繋ぐ

(1) 娘たちと“Forward”

私の妻はアメリカンカービングと言う革工芸の技術者であり、公認講師の称号も持った指導者でもあった。その実績は実に42年間に及ぶほどのプロ中のプロでもあった。

革工芸品アラカルト 花瓶・バッグ・スタンド クッション

妻の制作したものを慕う人も数多く存在していたし、購入した後のアフターケアにも熱心に対応していた誠実さもあった。
私は夫と言う特権で、ゴルフに使うボストンバッグや毎日持ち歩く財布、セカンドバック、ベルト、小銭入れ等々、その数は枚挙に暇の無いほどであった。

小銭入れ 小銭入れ2

それらのことも、もはや妻との思い出だけになっていくのかなと思っていたら、大阪に嫁いだ娘も息子のお嫁さんもそれを引き継いでくれるとのこと、嬉しい限りであり、活きる活力を繋いでくれていることを感じてもいる。

バッグ カービング 
美人画 美人画 100%ボストンバッグ 額縁の馬


(2) 皮革工芸工房の活用

妻が逝って3年超が経過した。
しかし、妻が長年使っていた工房は全く手つかずの状態であった。
妻が使っていた皮革用のミシンも、革すき機も、種々の工具も、革工芸用図書も、多くの制作物もそのままになっている。
「このままではいけない」と思いつつも「アレを片付け、これをこうして」などと計画は立てるものの、「これは思い出のあるものだからとっておこう」「これは妻が大事にしていたものだからしまっておこう」など、写真類が出てくるとそれに見入ってしまい時間が経つ。結局、全く手がつかないまま、そんなこんなで今まで来てしまった。
私には土台無理なことと思っていたら、大阪に嫁いだ娘がそんな状態を見かねて片づけをしてくれた。
その代わり「お父さんは一切口出ししないでね」という条件付きであった。やっぱり見抜かれていたようであったが、それもまた楽しい思いがする。
娘は、「多くの思い出があって捨てがたいとは思うけど、使う当てのないものは”今まで有り難う”とか”長い間ご苦労様でした”等の想いを込めて断捨離します。」と宣言してとりかかってくれた。
さすがに要領が良く、丸々一日をかけて頑張ってくれた。たちまち片付いていった。
これらに併せて息子夫婦が家の中全体を一つの生活空間になるようなレイアウトにも取り組んでくれた。
そんなお蔭もあって、家中全体と特に妻の部屋(工房)は見違えるように変貌した。
そのことによって、かなり広いスペースが確保されたことで、私はこの空間をフリースペースとして同好の士や気の合った友達などとの懇談の場に活用したいと思い、そのことを息子夫婦と娘に提案をした。
3人とも「いいじゃないか」と賛成してくれた。
また一つ”前へ”進むことが出来そうな気がする私であった。

4 生きがいの創出 “農あるくらしの輪”

農あるくらしを妻と始めてから15年が経過している。
農あるくらしとは「ほんの少しの農業を生活の中に取り入れる生活」のことである。どちらかと言えばこの分野は妻の方が詳しく、妻に教えられながら一緒に取り組んだ。
土を掘り起こして土壌を整え、元肥を施し、種を播いて、水やりをして、育つにつれての整枝や芽かき、除草などを経て収穫に至り、それを料理の材料として食卓に乗せて食す。
収穫時期を誤って腐らせてしまったジャガイモ、肥料をやりすぎて成長しすぎてトウを出してしまったタマネギ、芽かきのタイミングを失したために実が小ぶりとなってしまったトマト、受粉のタイミングを失したために実をつけなかったカボチャ、連作被害を考えないで植え付けしたために収量も質もかなり劣ってしまったナス、等々、失敗の数は枚挙に暇がないほどで、「苦労して育てずとも買った方が安いよね」などと揶揄されもした。
しかし、こういう失敗を重ねて、翌年はこれを克服する。その喜びは何物にも代えがたい魅力がある。

そして、同じ場所で一緒に農あるくらしを実践している仲間との交わりがまた楽しい。
私は、この仲間たちと「きょういくと きょうようのありすぎる畑仲間の会」を結成したりもしてきた。
この命名は、”今日行くところ”と”今日用事が”ありすぎる人たちのことをもじったものである。少し長ったらしい名前だが大いに気に入ってもいる。
この会での話題は、豊作談義やら不作談義やらの情報交換、仲間同士での食事会や飲み会、カラオケなどなどの交歓があってかなり楽しいものとなっている。
この仲間たちは、私の妻が亡くなって畑の世話が出来なくなったとき、それを補ってくれもしてくれたし、私が大学院へ通っていた二年間は、除草から消毒、植栽まで面倒を見てくれた。
その点ではお世話になりっぱなしで、恐縮しながらの昨今で感謝に堪えないものであった。
畑仲間はみんな高齢者ではあるけれども、そんなことは微塵も感じさせない素晴らしい人たちが集っている。
とにかくポジティブで明るい人たちが集っている。
まさに「活きている」人たちでもある。

迫りくる超高齢社会の中では、多くの喪失感に苛まれ、生きがいを失くし、社会との触れ合いを減少させ、健康寿命を損ねているケースが増えている。
私はこれらのことに着目し、この改善をしていくための方策として”農あるくらし”の実現が「高齢者の生きがい創出」に繋がると考え、大学院での研究テーマとして取り組んだ。
そして、その研究の過程で、農あるくらしを実践なさっている多くの方々の証言を得ることが出来たし、農あるくらしのもたらすものについて、次のような結論を出すに至ったのである。

曰く、
「農あるくらしには、それをやっている自身の居場所があり、役割があり、目標があり、収穫と言う成果を得ることが出来る」
「農あるくらしは、極めてクリエイティブであり、創造的である」
「農あるくらしは、協働の心が増幅されて人との交わりが促進され、社会性を増す要素となる」
「農あるくらしは、収穫と言う実りが、食育の喜びを味わうことが出来る」
ことなどなどの結論を導き出すことが出来た。
これら農あるくらしの実現が高齢者の生きがい創出にまで繋がっていることを確認することができたとも思っているし、現在私が担っている「健康・生きがい開発アドバイザー(健康生きがい開発財団認定)」としての活動に活かしていきたいと思っている。

あとがき

私はもうじき78歳になる。まさに、老人真只中でもある。
いま日本は、2040年に80才以上の方が1578万人、90歳以上の方が538万人、100才以上の方が31万人となるということが推測されている。
まさに、世界に例のない超高齢化社会となり、人生100年時代が名実ともに到来することになる状況である。
そして、これらの高齢化につれて、好むと好まざるに関わらず独居高齢者の数も増加してくることになる。
推測によると、2040年には高齢者(65歳以上)に占める独居高齢者の割合は、男性で約21%、女性で約25%まで上昇するとのことである。

窪寺俊之氏はその論文の中で、
「独居高齢者はその心の痛みに耐え、模索しながら新たな生きがいや生きる喜びを見出して行かなければならない。そして、そのためには
(1)未来に向かう心の姿勢
(2)自我の中心に迫っていることの価値の認識
(3)他者と交流することで生きがいを見つける
などで、自分の存在価値を感じられる居場所の発見が大事である」
ことが発表されている。
まさにその通りであるし、私も是非そうしていかなければならないとも思ってもいる。
妻を喪ったことを理由にして、これらの思いと行動を途絶えさせないようにしたいと思っている。

そして、「生きがい」と「活きがい」を両立させながら、「活きて 生きる」ことを目指して精進していかなければとも思っている。
ともすれば、折れがちな心を少しでも奮起させたい、そんな思いを持ちながら、毎日書いている妻との語り合いを集約して「亡き妻と共に”前へ”」と題したこの物語を書いた。
書いているうちに何度も、妻と約束したことが達成出来ているのだろうか? と言う戸惑いを持ちながらも、何とか書き上げることが出来た。

これも、私を指導してくれた関東学院大学の講師でもある松尾直子先生からのご指導のお蔭でもある。
当初は、ほんの数ページでしかなかったものを、私の感情(感動)の発露となるものを引き出して頂いて、この物語が完成したのである。
松尾先生からは「医者の宣告から奥様との最後の日々の部分、筆者の思い、奥様の思い、お二人がそれぞれに感じていた様々な思いが伝わってきて、息をのみながら読ませていただきました。現実と人と真っすぐに向き合っている筆者の生き様と真摯な思いがひしひしと伝わってきて、心が熱くなります。人とこんなにも深く信頼と愛でつながれるのだなと、教訓的なメッセージよりも、生き様そのものが心にストレートに訴えてきます。読みながら、こちらも自分自身の身近な人との関り、生き方など、色々な意味で鼓舞され考えさせられています。書いて伝えてくださって、どうもありがとうございます。」という言葉が寄せられた。

私にとってみれば、亡き妻との向き合い方について、このような言葉を頂いたことは、身に余る光栄であり宝物にもなる言葉でもあり、亡き妻と前へ進むことへの、大きな励ましの言葉ともなった。そして、改めて妻の存在の大きかったことを思わずにはいられなくなった。「いつも活動的でエネルギッシュですね。」と私を知る人からは言われ、それを誉め言葉で受け止めて自認してきた私なのだが、それは妻の存在があってのものであったことに気付かされもし、妻の遺志を全く引き継いでいない自分がいることにも愕然とさせられもした。そして、生きる意欲も、前向きさも失っている自分にも出会ったのがこの間の私でもあった。
老化で一番怖いのは「意欲の低下」であると言われているが、妻を喪った私は「意欲の喪失」そのものであったのだが、妻の遺志を引き継いでいこうとする私の想いと行動が伴なえば、何とかなるのではないかとも思っている。

そして、これからの人生の指針として「活きて 生きる そして前へ」を実践していきたいと思っている。
私が打ち沈んで「活きずに生きている」姿を妻は見たくないであろうし、そんな姿のまま妻の元へ行ったら愛想づかしをされかねない。それだけは願い下げである。
いつの日か訪れる妻との再会には、何としても胸を張って臨めるようにしたいと思っている私である。
最後に、妻の葬儀に参会してくれた人たちにお配りをしたお礼状を紹介して、この物語を閉じることとしたい。

お礼の言葉

かけがえのない日々をありがとう…
温かな家庭を築くことができたのも この妻に巡り会えたお陰です
もう少しすれば金婚式を迎えるはずでした
悔やむ気持ちは勿論ありますが 忘れられない多くの思い出が これからを生きる私達を励ましてくれるでしょう
昨年は息子夫婦や娘夫婦や孫も含む家族八人で沖縄旅行をしました
よほど皆が揃ったのが嬉しかったのか 普段は飲まないビールを飲んで 顔を真っ赤にしていた妻が忘れられません
あの表情は今でも私達の中で強く印象に残っています
娘がこの沖縄の旅での家族写真を飾りつけ大きなボードにしてくれましたので 妻も幸せそうでした
私が還暦を迎えた際はイタリア全土を回ったことも懐かしく 当時は言葉も通じず苦労した旅行でもありました
互いに振り返っては「疲れたねえ」と言いながらも 二人にとっては大切な思い出になっています
家庭を支えるだけでなく アメリカンカービングの公認講師としても頑張ってきた妻です
趣味が高じていつしか指導するまでになり42年…自宅の工房にて生徒さん方に教えていた姿はいきいきと輝いていました
何事にも一生懸命なところは妻の魅力の一つだったと思います
自分のことより家族が第一 そうして妻が紡いだ日々は家族の『幸せ』に繁がっていました
何度も私に伝えてくれた「前を向いて歩んで…」という遺志はしっかり受け継いで守っていくことを誓い 逝く妻を安心させたいと思っています
お世話になった皆様へ 生前のご厚情に深く成謝を申し上げます
本日はご多用の中ご参列いただき誠にありがとうございました
略儀ながら書状をもって厚く御礼申し上げます

平成30年9月18日

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