「貞さんがゆく」~父vs娘 爆笑介護バトル日記~

大学公開講座「物語をつくろう!で生まれた個性溢れる物語のご紹介。今回は、90代のご両親を介護するデン子さんの作品です。

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97才の家長・車貞雄と、その娘・車エツコの仁義ある介護バトルの記録(実話)です。一挙手一投足がクスッと笑える「オトボケの貞」さんに、文句炸裂しつつ寄り添うエツコ。その絶妙なやり取りに爆笑しつつ、介護ってこんなに楽しめるのかと目からうろこ!! 笑いながら、心がほんわりあったかくなりますよ。


夜討ち朝駆け バトル1

先手:貞雄

 吾輩は年寄りである。姓は車、名は貞雄。人呼んでオトボケの貞。
介護保険証によると、97歳、要介護度1とある。
年を取った実感はないが、あんなに動き回っていた足も最近はヨロヨロ、目はショボショボ、身体の衰えは明らかだ。
 退職して早30うん年、吾輩の一日は実にゆっくり、優雅だ。
誰よりも早く目覚め、同居人の起床を待つが、誰も起きてこない。
吾輩は自立自尊を旨としているので、一人おもむろに冷蔵庫を開け、昨日の残り物をテーブルいっぱいに並べる。
暫し待つが、それでも誰も現れぬ、毎度のことだ。
納豆をかき混ぜ、時に日本酒を傾ける。
いい気分でいると、ここの同居人の口うるさい方が起きてくる。テーブルいっぱいに並べられた皿の山を見て、こちらも又毎度のごとくギャアギャアわめき出す。
幸い寄る年波で、耳も遠いので、さほどうるさくはないが、吾輩がせっかく並べた皿の数々をせっせと冷蔵庫にしまい込む。
 この同居人、吾輩の事をすごい剣幕で「貞雄」、「貞」と呼び捨てにする。
しかし、たまに機嫌がいいと「お父さん」と呼ぶ。ということは、この口うるさいおばさん、吾輩の娘なのか。頭痛がしてきた。吾輩としたことが、なんという失態。こんながさつな女が娘だとは。一生の不覚、我が末路も見えたり。
酔いが回ったせいか、しゃべるのも億劫、ずり落ちた眼鏡の上から薄目を開け睨んでやるが、このがさつ女は気づきもせず、ひたすら皿を冷蔵庫に戻している。まあいい。腹が満たされ眠くなってきた。寝てくるか。

後手:エツコ

 階下からドッスン、ドッスン音がする。4脚杖を突く音だ。
階下に寝る貞が動き出した。時計を見る。まだ午前5時じゃないか。
貞は数年前から2階の自室を出て、階下の居間の介護ベッドで寝起きしている。

私、車エツコは車家の長女。現在、父97歳、母91歳と共に暮らしている。
外見は大分くたびれてきたが、2人共いたって元気だ。
2人がたまに行っていた近所の病院が、いつの間にか地域の中核病院になり、「元気な年寄りは来るな」とばかり、昨年2人揃って個人病院への逆紹介を受けたというツワモノ夫婦だ。
 こんな中で昨年私は定年退職をした。ゆっくり朝寝を楽しめると思っていた。
甘かった。

行者が金剛杖を突くような勇ましい音。皆が寝静まる中、もう少し配慮というものはないのか。
今すぐ起きて貞の動きを止めねば、食い尽くされることは必然。
しかし、身体が動かぬ。昨晩の深酒が原因か。
浅い眠りを何度か繰り返し、7時、覚醒。
慌てて駆け下り、台所のドアを開ける。電気が煌々と輝く下、暖房を最強にし、テレビの騒音の中、貞が椅子に座ったままうつらうつらしている。
慌ててテーブルを見るが、うん?皿がない。
今日はどうした。満腹だったか。
何はともあれ、助かった!と思ったのも束の間、昨晩の夕食がおでんだったことを思い出す。慌ててコンロの上の鍋の蓋を開ける。やられた。
鍋底に残るは大根、コンニャクの数点。奮発して買った鈴廣の練り物、全滅。
昨晩同様、今晩のメインディッシュにするべく大量に作り、今晩は手抜きをする予定だった。どうしてくれよう。

 たまに私の起床時に貞がまだベットの中という平穏な朝を迎える時がある。
しかし、そんな時も要注意。枕元にバナナの皮3本、ということがあるのだ。夜中に食べたのか。信じられん。寝ぼけまなこの貞に詰問、「なんで3本も食べるのか。」「食べていない」という返答。「これは何だ」と水戸黄門の印籠の如く3本の皮を突き出すと、暫し眺めつつ一言「おかしいなあ」とつぶやく。
貞雄さん、おかしいのは貴方です。


真昼の決闘 バトル2

先手:貞雄

 このガサツ女、がさつだけならまだしも、時に吾輩に無礼を働く。
吾輩に向かって「歳はいくつだ」と聞いてくる。寝起きの時など面倒くさいので適当に「19」と言うと、このガサツ、手をたたいて大笑いしている。
そして偉そうに「なんで娘の私より若いのか。おかしいと思わないか。もう一度考えてみろ」と言う。「知るか。何分吾輩はお前の様なガサツを娘にもった覚えはないのだから。」ガサツがしつこいので、こうなったら「やけのやんぱち日焼けのなすび」だ。思いついた数字を片端からから言ってやる。「29」「59」
そのうちガサツの「97」というどでかい声が響き渡る。
「知ってるなら聞くな!」心の中で毒づいてやる。

 回覧板が無造作に置いてある。ここは家長の責任としてしっかり読んで、隣りに回さなければならない。さてさて何か目新しい情報はあるかな。
飛び込んできたのは「新成人の皆様へ」というお知らせ。何々。
「平成12年4月2日~平成13年4月1日生まれで令和3年1月11日に成人式を迎える人は下記欄にご記入下さい。」町内会からお祝い品がでるとある。
13年、吾輩のことではないか。早速記入する。
氏名:車貞雄、性別:男
生年月日:平成○○年○○月○○日とあるところに13年11月26日と入れる。
住所:番地まで覚えていない。葛飾柴又とだけ書けば十分だろう。柴又で車家と言ったら我家だけだ。お祝い品の配達に間違うことはないだろう。捺印。完璧。
あとはガサツが見もせず回覧板を燐家のポストに入れるだろう。
やはり車家は吾輩でもっているようなものだ。
労働をしたら疲れた。さあ昼飯だ。

後手:エツコ

 時々貞さんの脳内チェックをする。ボケられたら大変だ。刺激を与えねば。
年齢を聞く。暫しの時があり、半分あくびをしながら面倒くさそうに「19」と答える。ダメだ。大分来ている。

 家事が一段落し、今朝方ポストから出し、置いておいた回覧板に目を通す。
「新成人の皆様へ」とあり、来春成人を迎える人の欄にすでに記入がある。
うちの班内で成人を迎える方がいるのだ。どのお宅だろう。燐家の男の子も最近あまり見かけないが、もうそんな歳かもしれない。それにしても、この筆跡。
若者の力強い筆跡とはほど遠い、ミミズがのたまわった様なか細い見覚えのある字。目ん玉を近づけてみる。「車貞雄、男、平成13年11月26日生、葛飾柴又」啞然!なんでここに貞が出てくるのだ。食いしん坊の貞、祝い品を紅白饅頭とでも思い、それに目がくらみ、あわよくば頂戴しようという算段か。
うら若き乙女が2,3歳サバを読むのは可愛いが、97歳の爺さんが77もサバを読むとは、なんたる図々しさ。世間ではそれを決して「かわいい」とはいわず、「ボケた」という。「おとぼけ貞」ここにきて全開。気づいて良かった。
恥っさらしの公文書が市中に出回るところだった。

時計をチラッと見た貞が「さあ昼だ。めしめし。」と叫んでいる。
寝て、食べて、又寝るだけで、なぜ腹が減る。
「あーお腹いっぱい。」とこちらも負けじと叫ぶと、「お腹ペッコペッコ」と狸よろしく自分のビール腹をポンポン叩いている。実に不思議な生き物だ。
貞雄さん、貴方、平成13年ではなく、大正13年生まれです。


年寄りの逆襲 バトル3

先手:エツコ

 夕刻、貞さんの御前にパンツを持って参上。
朝夕、日に2回、オムツ、否、もとい、リハビリパンツを替えるのが、私のルーティンになった。貞さん、自身でトイレに行くし用を足すこともできる。
が、数年前からリハビリパンツは必須アイテムになった。
替える前に大事な確認事項がある。これを怠ると大変なことになる。
おしっこチェックだ。「貞さん、おしっこは?」「おしっこないの。」
貞さん、たまにぶりっ子言葉になる。「替える前にトイレに行ってこよう。」
「いいの。ないの。」と言う。本当に出ないのか、トイレに行くのが面倒なだけなのか、当人でないので見当がつかない。
こちらも面倒になって、「本当だね。」と念を押す。「うんうん」と大層にうなづく貞さんを椅子から立たせ、こちらは屈んで両膝をつき、履いていたパンツを脱がせ、新しいパンツに片足を通す。と、突如我が手になにやら生暖かい液体が。
ひえー、やられた。「おしっこ出るじゃないの。なにが「ないの」だ。この噓つき貞。」そんな悪態をついている間にも、どんどん上から垂れくる。
慌てて横に捨て置いた汚れたパンツを掴み、元凶に押し当てる。が、このままでは床が水浸し、否、しっこ浸しになる。
「お母さん、雑巾。やられた。早く持って来て。」と叫ぶ私。
そんな私の手に、新たに今度は少し粘り気を帯びた液体が加わった。見上げると、貞さん、自分の股下で起こっている現在進行形の騒動を、口を開けて眺めている。

後手:貞雄

 テレビを見ていると、ガサツがパンツを持ってやって来た。朝夕のお務めだ。
犬の散歩でもあるまいに。面倒だが致し方ない。ヨロヨロと椅子から立ち上がる「トイレは?」とガサツが聞いてくる。毎度のことだ。しかしそう都合よく尿意を催すものではない。「いや結構。間に合ってます。」
ガサツ、疑いの目を向けたまま、吾輩のズボン、股引、パンツを一気にずり下げる。
外気が一気に吾輩の下半身を包んで、尿意が俄かに増してきた。まずい。と思った時にはすでにちょろちょろ、と同時に吾輩の股下で叫び声が上がった。ガサツが「止めろ、止めろ」というが、これがまた吾輩の持ち物であるにも関わらず、意のままにならず止まらない。断っておくが、決してこれ故意ではない。いくらガサツに日々虐げられているからといって、こんな事で憂さを晴らすほど、吾輩は意地悪くない。まずい、大分床が濡れてきた。ガサツが吾輩の連れ合いに雑巾を持ってくるよう叫んでいる。しかし、こちらも吾輩と同じ後期高齢者、急場の役に立たない。「早く、早く」と叫ぶことしきり、ヨタヨタとようやく持ってきた雑巾を、連れ合いから奪うように取ると、次の瞬間、信じられない事が起こった。ガサツが奪い取った雑巾を、なんと吾輩の大事なところに押し当てたのだ。一瞬我が身に何が起こったか分からなかった。理解不能だった。雑巾が吾輩の大事なところにある。雑巾は普通床だろう。血迷ったか、この無礼者。吾輩をなんと心得る。時々雑巾を外しながら「まだ出ている」と、のたまわるガサツ。
アッと口を開いたまま呆然と眼下を見つめる吾輩の歯抜けた口元からスーとヨダレが落ち、同時にガサツの新たな悲鳴が聞こえた。それ以降、吾輩は、貞雄改め「垂れ男」と呼ばれている。


エピローグ エツコのひとり言

 いつもご機嫌の貞さんである。ポーカーフェイス、素直である。お返事よく「はいはい」という事が多い。これは単に色々な事に反応するのが面倒なだけかもしれないが、言動がかわいくて面白いのだ。時にぶりっ子言葉を使ったり、右手を顔の前に振り上げるのは「ありがとう」「すみません」のポーズ。見ていて飽きない。だからか、貞さん中々の人気者だ。私の友人、うちを訪れるリハビリの先生、看護師等、歯科衛生士の若き女性から「一緒に写真を」と乞われ、一枚の写真に収まったこともある。90歳を超えて、遅ればせながら貞さんにモテ期が来た。しかし、悲しいかな、耳の遠くなった貞さんに周りの甘い囁きは届かない。

 今は家の中をウロウロするだけの貞さんだが、以前はよく自転車で近所を走り回り、退職後の生活を楽しんでいた。いつだったか貞さんが自転車で家を出た後、大分経って私も所用で家を出た。駅前の横断歩道で信号待ちをしていた私がふと横を向くと、その先に自転車を押してこちらに向かってくる貞さんが見えた。一瞬訳が分からない、状況が把握できなかった。大分前に家を出た貞さんが、なんでまだここに。それも自転車に乗らず、押している。
そうなのだ。いつの間にか貞さんは自転車に乗る体力がなくなり、自転車を杖替わりにして一所懸命歩いていたのだ。ショックだった。昔から寡黙な貞さんは何も言わないから、誰も気付かなかった。老いの現実を目の当たりにしながら、それでも変わらず自転車で出かけて行く貞さんの心中を思うと、哀れで切なかった。これが私が貞さんの老いを認識した最初だった。

 こんな事もあった。ある時、思いつきで不要になったカレンダーの裏面に2つの質問を書いてみた。

1.今までで一番楽しかったことは。
2.今までで一番悲しかったことは。

1番の問いには答えず、暫し考えていた貞さんが書いた2番の返答は。「B29により家を焼かれた。」予期せぬ返答に愕然とした。
そうなのだ。今でこそ平穏でご機嫌でボーッと生きてチコちゃんに怒られそうな貞さんだが、その長い97年の人生には、私など想像もできない色々があったのだ。そんなすごい人生を生き抜いてきたのだ。すごいぞ貞さん。
大好きな寅さんのこの口上が浮かぶ。「よお、じいさん、あんたすごいな。『大したもんだよカエルのしょんべん。見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ』

 貞さんに聞いたことがある。「お父さん、今幸せ、普通、不幸せ?」
旅行が好きであんなに動き回っていた貞さん、今では家で4脚杖の籠の鳥だ。
良くて「普通」の答えが返ってくると思っていた。それが「幸せ」だという。
驚いた私がその理由を尋ねると、少し照れたような顔で「お前がいるから」と言った。貞さんお得意の「オトボケ」か。まあいい。
貞さん、いつまでも元気で、そして天寿を全うして欲しいと思う。

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